私は、兼業農家の生まれで、7人家族で育ちました。
祖父母、父母、弟2人と私です。
父母は、外で働いていたので、
平日、学校から帰ってくると家にいたのは祖父母でした。
つまり、18歳で家を出るまでの、とても重要な時間を祖父母と過ごすことが多かったのです。
祖父は温厚な人でいつもニコニコしていて、
恵比寿さんのような人だと言う人もいました。
一方、祖母は、1本しんが通っていて、
考え方がはっきりしていて、
間違っていると思ったことには
決して譲歩しない硬い石の、いえ
固い意志の持ち主でした。
そんな鉄の女ならぬ「意志の女」祖母は、
当時、祖父と一緒に、
畑で野菜を作り、米作りのため田仕事、
山仕事をしていました。
学校から帰ると、近所の友達と遊ぶこともありましたが、
田や畑で、また納屋で仕事している祖父母のところに行き、
傍で遊んだりすることもありました。
当たり前のように、日常的にその光景を見て育ちました。
18歳までの多感な時期に一緒に過ごすことが多かったので、
沢山の影響を受けたと思いますし、
祖母には厳しくしつけられたと思います。
受験勉強で最も机についていたい時期にも、上げ膳据え膳は許してもらえませんでした。
そんな祖母の言葉の中で、最も心に残っていて忘れられない教えは、
「米1粒でも無駄にすると目がつぶれる!」
でした。
面白いこともひねって感動的なことも言わない
生真面目で厳しい祖母らしい言葉です。
『「米」は、「八十八」の手間をかけて作る作物なので
感謝して大切に食べよう。』
とよく言われますね。
理屈は一切語らない祖母なので、
米という字の成り立ちを
私が知ったのは、ずっと後のことです。
いえ、ひょっとしたら米という字の
成り立ちを知っていたかどうかもわかりません。
祖母も、親や育ててくれた人に
「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」と
言われてきたのかもしれません。
でも、ただ言われても何も感じなかったら、
身体を通り抜けて行ってしまい、
残らないと思いますがら、
人に伝えることはないでしょう。
祖母は明治生まれ、
今のように米作りが機械化されていない頃の
米作りは、想像を超える大変さだっただろうと
思います。
私には想像するしかなく、
本当に実感することは不可能でしょう。
ただ、実家の納屋や農機具庫に残っていた昔の農機具
(民族博物館とかにありそうなヤツです)を見ると
稲刈りや脱穀も大変な手間だったのだなと感じますし、
祖父母の所有していた昔の写真を見ると、
農繁期が一大行事で、どんなに大変だっただろうかと思います。
昔、私の地方では、田植えの時期や稲刈りの時期には、
近所の農家が順番に、総出で、それぞれの田の田植え、
稲狩りをみんなで手伝ってやっていたそうです。
子供の頃、祖父母のアルバムで、
母屋の前で、何十人もの人たちが
並んで写っていいる集合写真を見て、
なんだろうと思っていましたが、
農繁期の手伝いに来てくれた人たちとの
記念写真だったのです。
田んぼが多い農家にはちょっと遠いところからも
手伝いの人が来て、結構な人数の人が集まって
田植え、稲刈りをやるのです。
来てもらった農家は、手伝いにきた大勢の人たちに食事を振る舞い、
決して『腹の細い』思いをさせないよう、
十分に食事を用意して提供しなければなりませんでした。
いやぁ、同時の農家の女性は本当に大変だったでしょう。
祖母もそれをやってきたのでしょう。
もちろんお勝手も、この人数の食事を一人ではできないですから
近所の女性たちが集まって相互に助け合っていたのでしょう。
今は、田植え機も、稲刈り機も機械化され、近所の応援なくして
各自でできるようになりました。
余談ですが、この相互に助け合う共同体は、今も残っていて、
お葬式を自宅で行いますので、その際には、皆、仕事を切り上げて
食事の支度や葬儀の準備にその家に行きます。
この先は、それもなくなって行くのだろうと思いますが。
話を戻しますと、
「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」は、
祖父母の世代の人たちは、
本当に、本当の実感を持って
米や食物のありがたみがわかっていただろうということです。
安易にご飯を残して捨てることは、
本当に罰当たりなことだったのです。
「食べ物を大切にしよう」
よく言われる言葉ですが
この飽食の時代の私たちには、
単なるスローガンのようなものになっているかもしれませんね。
~祖父母が遺してくれたもの~
祖父母はすでに他界してこの世界にはおりません。
「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」と
小さい頃に言われて、
私は「はいそうします」と
簡単に大切にできる人間になれたわけではありません。
わかっていることと、できることは違うんです。
頭では理解していましたが、
10代の頃、20代の頃、本当にはできていませんでした。
それは、甘いものを貪るように食べていた
私のブラックな歴史が物語っています。(※1巻末参照)
わかっていてもできなくて、
一人暮らしの夕飯はチョコ!
ちょっと罪悪感もありつつ
暮らしていた20代後半
祖母が亡くなりました。
祖母と私は心理的な結びつきが強かったようです。
祖母を亡くした喪失感は言葉には言い表せないほどで、
毎晩夢に見ること1ヶ月以上。
亡くなってからの、その1ヶ月以上、
私は、ほどんど何も食べれない状態になってしまいました。
頭では食べなくては、何か口にしなければと思っても、
あれほど、中毒で食べたくて仕方なかった甘いものも、
食欲がなくて何も欲しくなくなりました。
そして、祖母は仏教徒でしたから四十九日の法要をし、
その頃、ようやく少し気持ちの整理がついたのだと思います。
食欲が少し戻ってきて、
最初に食べたのは、
甘いものではなく、
普通のご飯だったと思います。
一口、口に入れたとき、
ご飯が美味しいと思い、
美味しかった以上に、その時、
「食べれることはなんてありがたいことか」
と真に思いました。
こみ上げてきた感情と、
食べる事ができたことへの感謝の思いは、今でも忘れられません。
それ以来、
夕食がわりにチョコやチューインガムを食べる生活は
卒業しました。
砂糖をやめるのはまだずっと後のことですが、
約10年ほど、めちゃくちゃな食生活だったところから
抜け出して、
ご飯が美味しく、楽しく、ありがたく食べれるように
なりました。
祖母の最後のプレゼント!なんて言ってしまえば
かっこいいですが、
まぁ、一種のショック療法になったということでしょう。
そんな明治女の影響を受けていますので、
まめでのキッチンでも、食べ物を粗末にするスタッフに
厳しいです。
お客様にお出しする以外の野菜くずや食材は、
できる限り、賄いなどでいただくようにしています。
鍋肌にたくさん料理が残った状態で洗おうとする
スタッフは、もれなく私に叱られます。
「それくらいいいでしょ、ケチ臭いオーナーだな」と内心思っているかもしれません笑
今まで、ここまで詳しく背景は話していなかったですしね。
ちなみに、タイトルの「がんこ」とはですね
祖母の名前です。
本当は『岩子』と書いて『いわこ』と読みます。
本名です。
女性に『岩』とつけるなんて
子供心にすごい名前だなあと思っていました。
名前の通り、がんこな岩のような人だと思っていました。
(おばあちゃん、ごめんなさい)
でも、言い方を変えれば、
本当に『意志の人』でした。
誰に認めてもらえなくても、
誰にも分かってもらえなくても
「天が見ていてくださる」と
言っていたそうです。
(私は子供だったので直接聞いたことはないですが
母にはよくそう言っていたそうです)
実家の辺りでは、5月上旬が田植えシーズンです。
土をおこした田んぼの匂いと、苗の匂いを
思い出しながら、記してみました。
お読みくださってありがとうございます。
※1 文中の”私のブラックな歴史が物語っています。”は、
以下にも記載があります。