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2022年6月の記事一覧

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    明治女の米一粒

    私は、兼業農家の生まれで、7人家族で育ちました。祖父母、父母、兄弟2人と私です。 父母は、外で働いていたので、平日、学校から帰ってくると家にいたのは祖父母でした。 つまり、18歳で家を出るまでの、とても重要な時間を祖父母と過ごすことが多かったのです。 祖父は温厚な人でいつもニコニコしていて、恵比寿さんのような人だと言う人もいました。 一方、祖母は、1本しんが通っていて、考え方がはっきりしていて、間違っていると思ったことには決して譲歩しない硬い石の、いえ固い意志の持ち主でした。 そんな鉄の女ならぬ「意志の女」祖母は、当時、祖父と一緒に、畑で野菜を作り、米作りのため田仕事、山仕事をしていました。 学校から帰ると、近所の友達と遊ぶこともありましたが、田や畑で、また納屋で仕事している祖父母のところに行き、傍で遊んだりすることもありました。当たり前のように、日常的にその光景を見て育ちました。 18歳までの多感な時期に一緒に過ごすことが多かったので、沢山の影響を受けたと思いますし、祖母には厳しくしつけられたと思います。 受験勉強で最も机についていたい時期にも、上げ膳据え膳は許してもらえませんでした。 そんな祖母の言葉の中で、最も心に残っていて忘れられない教えは、「米1粒でも無駄にすると目がつぶれる!」でした。 面白いこともひねって感動的なことも言わない生真面目で厳しい祖母らしい言葉です。 『「米」は、「八十八」の手間をかけて作る作物なので感謝して大切に食べよう。』とよく言われますね。 理屈は一切語らない祖母なので、米という字の成り立ちを私が知ったのは、ずっと後のことです。いえ、ひょっとしたら米という字の成り立ちを知っていたかどうかもわかりません。 祖母も、親や育ててくれた人に「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」と言われてきたのかもしれません。 でも、ただ言われても何も感じなかったら、身体を通り抜けて行ってしまい、残らないと思いますがら、人に伝えることはないでしょう。 祖母は明治生まれ、今のように米作りが機械化されていない頃の米作りは、想像を超える大変さだっただろうと思います。 私には想像するしかなく、本当に実感することは不可能でしょう。 ただ、実家の納屋や農機具庫に残っていた昔の農機具(民族博物館とかにありそうなヤツです)を見ると稲刈りや脱穀も大変な手間だったのだなと感じますし、祖父母の所有していた昔の写真を見ると、農繁期が一大行事で、どんなに大変だっただろうかと思います。 昔、私の地方では、田植えの時期や稲刈りの時期には、近所の農家が順番に、総出で、それぞれの田の田植え、稲狩りをみんなで手伝ってやっていたそうです。 子供の頃、祖父母のアルバムで、母屋の前で、何十人もの人たちが並んで写っていいる集合写真を見て、なんだろうと思っていましたが、農繁期の手伝いに来てくれた人たちとの記念写真だったのです。 田んぼが多い農家にはちょっと遠いところからも手伝いの人が来て、結構な人数の人が集まって田植え、稲刈りをやるのです。来てもらった農家は、手伝いにきた大勢の人たちに食事を振る舞い、決して『腹の細い』思いをさせないよう、十分に食事を用意して提供しなければなりませんでした。 当時の農家の女性は本当に大変だったでしょう。祖母もそれをやってきたのです。もちろんお勝手も、何十人もの食事を一人ではできないですから近所の女性たちが集まって相互に助け合っていたのでしょう。 今は、田植え機も、稲刈り機も機械化され、近所の応援なくして各自でできるようになりました。「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」は、 祖父母の世代の人たちは、 本当に、本当の実感を持って 米や食物のありがたみがわかっていただろうということです。 安易にご飯を残して捨てることは、本当に罰当たりなことだったのです。 「食べ物を大切にしよう」よく言われる言葉ですがこの飽食の時代の私たちには、単なるスローガンのようなものになっているかもしれませんね。 ~祖父母が遺してくれたもの~祖父母はすでに他界してこの世界にはおりません。 「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」と小さい頃に言われて、私は「はいわかりました、そうします」と簡単に大切にできる人間だったわけではありません。わかっていることと、できることは違います。 頭では理解していましたが、10代・20代の頃は、本当にはできていませんでした。 そのころは、甘いものが大好きで、ご飯の代わりに甘いものを食べていたのです。 わかっていても普通のご飯を食べる気になれなくて、一人暮らしの夕飯はチョコ!そんなめちゃくちゃな食生活をしていた20代後半、祖母が亡くなりました。 祖母と私は心理的な結びつきが強かったようです。祖母を亡くした喪失感は言葉には言い表せないほどで、毎晩、祖母が夢に現れました。 亡くなってからの、その1ヶ月以上、私は、ほどんど何も食べれない状態になってしまいました。 頭では食べなくては、何か口にしなければと思っても、あれほど食べたくて仕方なかった甘いものも、食欲がなくて何も食べることができなくなりました。 そして、祖母は仏教徒でしたから四十九日の法要をし、その後くらいだったと思います。 ようやく祖母を見送る心の準備ができてきて、少しずつ気持ちの整理がついてきたのだと思います。 食欲が少し戻ってきて、最初に食べたのは、甘いものではなく、普通のご飯でした。 一口、口に入れたとき、「あぁ、ご飯が美味しい」と思いました。美味しかった以上に、その時、「ご飯が食べれることがこんなにありがたいことだったなんて」と真に思いました。 その時の、食べることができた安堵の気持ちと食べる事への感謝の思いは、今でも忘れられません。 それ以来、夕食がわりにチョコやチューインガムを食べる生活は卒業しました。 砂糖をやめるのはまだずっと後のことですが、約10年ほど、めちゃくちゃな食生活だったところから抜け出して、ご飯が美味しく、楽しく、ありがたく食べれるようになりました。 祖母の死が、一種のショック療法になったということですが、 これも祖母の最後の贈り物、いえ、私に与えられた試練だったのでしょうか。 頑固一徹信念の人、祖母らしい荒療法を施して旅立って行きました。 そんな明治女の影響を受けていますので、まめでのキッチンでも、食べ物を粗末にするスタッフに厳しいです。 私たちは飽食の時代に育っていますから、入りたての新人スタッフの多くは、野菜や食材を無駄に切り刻んで、いとも簡単に捨てようとします。鍋肌にたくさん料理が残った状態で洗おうとするスタッフは、もれなく私に叱られます。 「それくらいいいでしょ、ケチ臭い店主だな」と内心思っているかもしれません笑今まで、ここまで詳しく背景は話していなかったですしね。 後日談: ブログに目を通したスタッフの姿勢が変わったのを感じます。 私に注意されるからじゃなくて、自発的に食材を大切にしてくれているように思います。 お読みくださってありがとうございます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ブログは、週刊メルマガをrewriteしています。 ブログには載らない呟きや記事もあります。 直接メルマガを受け取ってみませんか? メルマガは、maga.sugar-free@mamedeno1.com より配信しています(配信専用) 携帯メールの方は、受信できるよう設定をお願いいたします。 メルマガ登録はこちらから 砂糖なしでe-magazine

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    保護中: Gyu-newな話2 その対策、すごいです・・・

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    やけどの水膨れが数時間で跡形もなく消滅

    先日、ランチライム中に、 揚げ油が跳ねて、火傷したんです。 右手の中指、薬指、小指。 揚げ油の中に、 食材からか、調理器具からかは、 わからないのですが 何か水気があったらしい。 手を近づけた時に、ちょうど 『ボワンッ!』と 油が大きくうねり跳ねて、 右手の3本の指にまともにぶっかかりました。 飲食店やってらっしゃる方は、 おそらく皆さんそうだと思いますけど、 指を怪我しても、火傷しても オーダーが入っている時は そのまま、調理続けるんですね。 (怪我は輪ゴムとかでぐるぐる巻きにして止血してビニール袋かぶせて食材を汚染しないようにしてやりますよ) さて、火傷は皆さんご存知のように、 すぐに冷やさないと、水膨れになったり 症状がひどくなりますよね。 でも右手なので、 作業を止めるわけにもいかず、 流水を2、3秒かけるくらいで、あとは保冷剤を引っ張り出してきて当てがうくらい。 されど、作業中の利き手なので、 これも5秒くらいだけあてる。 何しろ、お料理出すのが優先です。 注文とその次の注文の間に、 もう一回、流水数秒、保冷剤数秒くらい 当てて冷やしました。 そのまま仕事続けていて、気付いたら 1時間近く経っていたでしょうか。 14時にちょうどスタッフがやってきて、 ようやく自分の状況を省みる余裕ができました。 はたと気づいたら、小指あたりに 水膨れができていて痛みがある。 ヤバイ! と思ったけれど、 今度はウーバーイーツの注文が入り、 ゆっくり冷やしている暇はない。 どうしようかと考えた時に、 ふと、あることを思い出して、 サニーレタスの外葉、 お客様にはお出ししない部分の、 葉っぱを右手に巻き付けた。 冷蔵庫に入っていたし、いい感じにひんやりする。 この時の状況を、若いスタッフは、 「おかしなことやるなあ」と見ていたようだ。 後日、 「そんなのやってる人見たら、  この人、完全にいっちゃってると思うだろう」と いってましたから笑 で、火傷に話を戻しますと、 火傷に巻き付けたサニーレタスは、 完全に萎びてしなしな、 体温で熱くなったところで ありがとうさせていただいた。 そのあとは、火傷のことは 忘れてしまって、仕事を続けました。 そして 翌日、ふと、「そういえば火傷!」と、 思い出しました。 火傷の指を見ると、何と 水膨れはなかったのです。 どの指も正常で、痛みもなし。 びっくりするほど、何も異変なく、 水膨れも火傷の後もない。 痛みも違和感もないから つい火傷したこと忘れちゃったんでしょうね。 マクロビオッティックなどを学ばれた方は ご存知でしょうが、 火傷の時に葉物野菜で冷やすのは お手当てのひとつである。 座学で学んだが、今までやったことはなかった。 「机上の理論」とまでは言わないが、 まさか、ここまで効くとは思わなかった、 これまで、自然派のお手当は、 どちらかと言うと ゆっくり作用するもので、 即効性はないと思っていて、 対処療法である西洋医学の方が、 早く効くだろうと思っていた。 しかし、考えてみると、 仮に、できかけていた水膨れに 火傷用の軟膏を塗っても 一晩で治ったかどうかわからない。 そんなに早くは治らなかった のではないかと推測する。 そうやって考えると、 葉物野菜で火傷があっという間に 消滅してしまったことが あまりにもすごーい!!と思ったので ご紹介したくなり、ペンを取りました。 今、手元に、 大森一慧 先生の著書 「からだの自然治癒力を引きだす食事と手当て」 がありまして、 それによると、 「油がはねた、というような軽い火傷には 軽く塩を塗ってから青菜をのせクールダウン。 痛みが出てきたら青菜は取り替えます」 とのこと。 一慧先生、塩と青菜なんですね。 塩は、実は切り傷にも有効です。 「傷口に塩」って、悪い冗談だと 思う人もいるでしょうが、 塩は「締める」作用があるので 止血効果や患部を収縮させる(ふさぐ)作用があります。 殺菌効果も。 この本には、火傷に塩を使う理由は書いてありませんが、 おそらくそのような理由なのではないかと 私は思いました。 化膿したり、水膨れ(膨れる=広がる)のを 防ぐ目的ではないかと推測します。 「痛みが出たら、青菜を取り換える」 そう、だから私は、野菜(植物)は尊いと 思うのです。 ただ単に冷やすだけではなくて、 火傷の熱と一緒に、痛みや炎症持って行ってくれる ってことなんでしょうね。 植物は代わりに萎れてくれる、 優しきものたちです。 私の火傷も、痛みと水膨れを サニーレタスが持って行ってくれました。 ちなみに、東城百合子先生の著書 「自然療法」では、 「すぐ塩水につけること」とまずあって、 ビワの葉エキスにつけると痛みなく 早く傷も残さず治る」とある あとは、私も子供の頃からお世話になっていた アロエ。 それから石蕗(ツワブキ)を炙ってつけるのも 効果的だとか。 ツワブキって、身近に庭とかにある方は、 都会では少ないかもしれませんが、 アウトドアで火傷した時なんかに 野にあったら使える?!かな。 ビワの葉エキスは、自然食品店などに 売っていることがありますが、 自分で作れます。 私は自家製のビワの葉エキスを常備しています。 傷にはビワの葉エキスです。 今回はサニーレタスのおかげで出番はなかったですが。 いやあ、葉っぱ(植物)すごい!!と 思ったので、 火傷の話をちょっとだけ書くのつもりが、 書いちゃいましたね(汗 もちろん、重度の火傷には、 さらに別のお手当が必要なので、 全ての火傷に葉っぱ、ではありません。 お気をつけください。 ところで 冒頭に記したように、 火傷に葉っぱ貼るなんて、 『ちょっとおかしな人』 これが一般的な感覚なのだと この時、気づかされました。 「傷や疾患は薬や医療行為で 直すもの」→ 「薬や医療でしか治らない」 近年、私たちはこのように 刷り込まれてきましたからね。 かくゆう私も子供の頃、 風邪をひいた祖父が 喉にネギを貼り付けて 手拭いを巻いている (ネギ湿布?!というのでしょうかね) という姿を何度も目撃していて、 「おじいちゃん、そんなことしても治らないよ」 とそのたびに言っていたのを思い出しました。 当時、私は、体調不良は病院や薬でしか治らないと 思っていたのです。 ネギ湿布は、 一度も試したことはありませんが、 何度もやっていたということは、 ひょっとして効果があったのかも しれませんね。 いつかやってみよう笑 何はともあれ、私たちの糧として また代わりに萎びたり枯れたり その生命を差し出してくれる 植物たちにとても感謝しています。 植物は高貴な存在だと個人的には思っています。 あぁ、こういうこと書くから 変な人なんでしょうね(汗 最後までお読みくださって ありがとうございます。

  • 明治女の米一粒

    私は、兼業農家の生まれで、7人家族で育ちました。祖父母、父母、兄弟2人と私です。 父母は、外で働いていたので、平日、学校から帰ってくると家にいたのは祖父母でした。 つまり、18歳で家を出るまでの、とても重要な時間を祖父母と過ごすことが多かったのです。 祖父は温厚な人でいつもニコニコしていて、恵比寿さんのような人だと言う人もいました。 一方、祖母は、1本しんが通っていて、考え方がはっきりしていて、間違っていると思ったことには決して譲歩しない硬い石の、いえ固い意志の持ち主でした。 そんな鉄の女ならぬ「意志の女」祖母は、当時、祖父と一緒に、畑で野菜を作り、米作りのため田仕事、山仕事をしていました。 学校から帰ると、近所の友達と遊ぶこともありましたが、田や畑で、また納屋で仕事している祖父母のところに行き、傍で遊んだりすることもありました。当たり前のように、日常的にその光景を見て育ちました。 18歳までの多感な時期に一緒に過ごすことが多かったので、沢山の影響を受けたと思いますし、祖母には厳しくしつけられたと思います。 受験勉強で最も机についていたい時期にも、上げ膳据え膳は許してもらえませんでした。 そんな祖母の言葉の中で、最も心に残っていて忘れられない教えは、「米1粒でも無駄にすると目がつぶれる!」でした。 面白いこともひねって感動的なことも言わない生真面目で厳しい祖母らしい言葉です。 『「米」は、「八十八」の手間をかけて作る作物なので感謝して大切に食べよう。』とよく言われますね。 理屈は一切語らない祖母なので、米という字の成り立ちを私が知ったのは、ずっと後のことです。いえ、ひょっとしたら米という字の成り立ちを知っていたかどうかもわかりません。 祖母も、親や育ててくれた人に「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」と言われてきたのかもしれません。 でも、ただ言われても何も感じなかったら、身体を通り抜けて行ってしまい、残らないと思いますがら、人に伝えることはないでしょう。 祖母は明治生まれ、今のように米作りが機械化されていない頃の米作りは、想像を超える大変さだっただろうと思います。 私には想像するしかなく、本当に実感することは不可能でしょう。 ただ、実家の納屋や農機具庫に残っていた昔の農機具(民族博物館とかにありそうなヤツです)を見ると稲刈りや脱穀も大変な手間だったのだなと感じますし、祖父母の所有していた昔の写真を見ると、農繁期が一大行事で、どんなに大変だっただろうかと思います。 昔、私の地方では、田植えの時期や稲刈りの時期には、近所の農家が順番に、総出で、それぞれの田の田植え、稲狩りをみんなで手伝ってやっていたそうです。 子供の頃、祖父母のアルバムで、母屋の前で、何十人もの人たちが並んで写っていいる集合写真を見て、なんだろうと思っていましたが、農繁期の手伝いに来てくれた人たちとの記念写真だったのです。 田んぼが多い農家にはちょっと遠いところからも手伝いの人が来て、結構な人数の人が集まって田植え、稲刈りをやるのです。来てもらった農家は、手伝いにきた大勢の人たちに食事を振る舞い、決して『腹の細い』思いをさせないよう、十分に食事を用意して提供しなければなりませんでした。 当時の農家の女性は本当に大変だったでしょう。祖母もそれをやってきたのです。もちろんお勝手も、何十人もの食事を一人ではできないですから近所の女性たちが集まって相互に助け合っていたのでしょう。 今は、田植え機も、稲刈り機も機械化され、近所の応援なくして各自でできるようになりました。「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」は、 祖父母の世代の人たちは、 本当に、本当の実感を持って 米や食物のありがたみがわかっていただろうということです。 安易にご飯を残して捨てることは、本当に罰当たりなことだったのです。 「食べ物を大切にしよう」よく言われる言葉ですがこの飽食の時代の私たちには、単なるスローガンのようなものになっているかもしれませんね。 ~祖父母が遺してくれたもの~祖父母はすでに他界してこの世界にはおりません。 「米1粒を無駄にすると目がつぶれる!」と小さい頃に言われて、私は「はいわかりました、そうします」と簡単に大切にできる人間だったわけではありません。わかっていることと、できることは違います。 頭では理解していましたが、10代・20代の頃は、本当にはできていませんでした。 そのころは、甘いものが大好きで、ご飯の代わりに甘いものを食べていたのです。 わかっていても普通のご飯を食べる気になれなくて、一人暮らしの夕飯はチョコ!そんなめちゃくちゃな食生活をしていた20代後半、祖母が亡くなりました。 祖母と私は心理的な結びつきが強かったようです。祖母を亡くした喪失感は言葉には言い表せないほどで、毎晩、祖母が夢に現れました。 亡くなってからの、その1ヶ月以上、私は、ほどんど何も食べれない状態になってしまいました。 頭では食べなくては、何か口にしなければと思っても、あれほど食べたくて仕方なかった甘いものも、食欲がなくて何も食べることができなくなりました。 そして、祖母は仏教徒でしたから四十九日の法要をし、その後くらいだったと思います。 ようやく祖母を見送る心の準備ができてきて、少しずつ気持ちの整理がついてきたのだと思います。 食欲が少し戻ってきて、最初に食べたのは、甘いものではなく、普通のご飯でした。 一口、口に入れたとき、「あぁ、ご飯が美味しい」と思いました。美味しかった以上に、その時、「ご飯が食べれることがこんなにありがたいことだったなんて」と真に思いました。 その時の、食べることができた安堵の気持ちと食べる事への感謝の思いは、今でも忘れられません。 それ以来、夕食がわりにチョコやチューインガムを食べる生活は卒業しました。 砂糖をやめるのはまだずっと後のことですが、約10年ほど、めちゃくちゃな食生活だったところから抜け出して、ご飯が美味しく、楽しく、ありがたく食べれるようになりました。 祖母の死が、一種のショック療法になったということですが、 これも祖母の最後の贈り物、いえ、私に与えられた試練だったのでしょうか。 頑固一徹信念の人、祖母らしい荒療法を施して旅立って行きました。 そんな明治女の影響を受けていますので、まめでのキッチンでも、食べ物を粗末にするスタッフに厳しいです。 私たちは飽食の時代に育っていますから、入りたての新人スタッフの多くは、野菜や食材を無駄に切り刻んで、いとも簡単に捨てようとします。鍋肌にたくさん料理が残った状態で洗おうとするスタッフは、もれなく私に叱られます。 「それくらいいいでしょ、ケチ臭い店主だな」と内心思っているかもしれません笑今まで、ここまで詳しく背景は話していなかったですしね。 後日談: ブログに目を通したスタッフの姿勢が変わったのを感じます。 私に注意されるからじゃなくて、自発的に食材を大切にしてくれているように思います。 お読みくださってありがとうございます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ブログは、週刊メルマガをrewriteしています。 ブログには載らない呟きや記事もあります。 直接メルマガを受け取ってみませんか? メルマガは、maga.sugar-free@mamedeno1.com より配信しています(配信専用) 携帯メールの方は、受信できるよう設定をお願いいたします。 メルマガ登録はこちらから 砂糖なしでe-magazine

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  • やけどの水膨れが数時間で跡形もなく消滅

    先日、ランチライム中に、 揚げ油が跳ねて、火傷したんです。 右手の中指、薬指、小指。 揚げ油の中に、 食材からか、調理器具からかは、 わからないのですが 何か水気があったらしい。 手を近づけた時に、ちょうど 『ボワンッ!』と 油が大きくうねり跳ねて、 右手の3本の指にまともにぶっかかりました。 飲食店やってらっしゃる方は、 おそらく皆さんそうだと思いますけど、 指を怪我しても、火傷しても オーダーが入っている時は そのまま、調理続けるんですね。 (怪我は輪ゴムとかでぐるぐる巻きにして止血してビニール袋かぶせて食材を汚染しないようにしてやりますよ) さて、火傷は皆さんご存知のように、 すぐに冷やさないと、水膨れになったり 症状がひどくなりますよね。 でも右手なので、 作業を止めるわけにもいかず、 流水を2、3秒かけるくらいで、あとは保冷剤を引っ張り出してきて当てがうくらい。 されど、作業中の利き手なので、 これも5秒くらいだけあてる。 何しろ、お料理出すのが優先です。 注文とその次の注文の間に、 もう一回、流水数秒、保冷剤数秒くらい 当てて冷やしました。 そのまま仕事続けていて、気付いたら 1時間近く経っていたでしょうか。 14時にちょうどスタッフがやってきて、 ようやく自分の状況を省みる余裕ができました。 はたと気づいたら、小指あたりに 水膨れができていて痛みがある。 ヤバイ! と思ったけれど、 今度はウーバーイーツの注文が入り、 ゆっくり冷やしている暇はない。 どうしようかと考えた時に、 ふと、あることを思い出して、 サニーレタスの外葉、 お客様にはお出ししない部分の、 葉っぱを右手に巻き付けた。 冷蔵庫に入っていたし、いい感じにひんやりする。 この時の状況を、若いスタッフは、 「おかしなことやるなあ」と見ていたようだ。 後日、 「そんなのやってる人見たら、  この人、完全にいっちゃってると思うだろう」と いってましたから笑 で、火傷に話を戻しますと、 火傷に巻き付けたサニーレタスは、 完全に萎びてしなしな、 体温で熱くなったところで ありがとうさせていただいた。 そのあとは、火傷のことは 忘れてしまって、仕事を続けました。 そして 翌日、ふと、「そういえば火傷!」と、 思い出しました。 火傷の指を見ると、何と 水膨れはなかったのです。 どの指も正常で、痛みもなし。 びっくりするほど、何も異変なく、 水膨れも火傷の後もない。 痛みも違和感もないから つい火傷したこと忘れちゃったんでしょうね。 マクロビオッティックなどを学ばれた方は ご存知でしょうが、 火傷の時に葉物野菜で冷やすのは お手当てのひとつである。 座学で学んだが、今までやったことはなかった。 「机上の理論」とまでは言わないが、 まさか、ここまで効くとは思わなかった、 これまで、自然派のお手当は、 どちらかと言うと ゆっくり作用するもので、 即効性はないと思っていて、 対処療法である西洋医学の方が、 早く効くだろうと思っていた。 しかし、考えてみると、 仮に、できかけていた水膨れに 火傷用の軟膏を塗っても 一晩で治ったかどうかわからない。 そんなに早くは治らなかった のではないかと推測する。 そうやって考えると、 葉物野菜で火傷があっという間に 消滅してしまったことが あまりにもすごーい!!と思ったので ご紹介したくなり、ペンを取りました。 今、手元に、 大森一慧 先生の著書 「からだの自然治癒力を引きだす食事と手当て」 がありまして、 それによると、 「油がはねた、というような軽い火傷には 軽く塩を塗ってから青菜をのせクールダウン。 痛みが出てきたら青菜は取り替えます」 とのこと。 一慧先生、塩と青菜なんですね。 塩は、実は切り傷にも有効です。 「傷口に塩」って、悪い冗談だと 思う人もいるでしょうが、 塩は「締める」作用があるので 止血効果や患部を収縮させる(ふさぐ)作用があります。 殺菌効果も。 この本には、火傷に塩を使う理由は書いてありませんが、 おそらくそのような理由なのではないかと 私は思いました。 化膿したり、水膨れ(膨れる=広がる)のを 防ぐ目的ではないかと推測します。 「痛みが出たら、青菜を取り換える」 そう、だから私は、野菜(植物)は尊いと 思うのです。 ただ単に冷やすだけではなくて、 火傷の熱と一緒に、痛みや炎症持って行ってくれる ってことなんでしょうね。 植物は代わりに萎れてくれる、 優しきものたちです。 私の火傷も、痛みと水膨れを サニーレタスが持って行ってくれました。 ちなみに、東城百合子先生の著書 「自然療法」では、 「すぐ塩水につけること」とまずあって、 ビワの葉エキスにつけると痛みなく 早く傷も残さず治る」とある あとは、私も子供の頃からお世話になっていた アロエ。 それから石蕗(ツワブキ)を炙ってつけるのも 効果的だとか。 ツワブキって、身近に庭とかにある方は、 都会では少ないかもしれませんが、 アウトドアで火傷した時なんかに 野にあったら使える?!かな。 ビワの葉エキスは、自然食品店などに 売っていることがありますが、 自分で作れます。 私は自家製のビワの葉エキスを常備しています。 傷にはビワの葉エキスです。 今回はサニーレタスのおかげで出番はなかったですが。 いやあ、葉っぱ(植物)すごい!!と 思ったので、 火傷の話をちょっとだけ書くのつもりが、 書いちゃいましたね(汗 もちろん、重度の火傷には、 さらに別のお手当が必要なので、 全ての火傷に葉っぱ、ではありません。 お気をつけください。 ところで 冒頭に記したように、 火傷に葉っぱ貼るなんて、 『ちょっとおかしな人』 これが一般的な感覚なのだと この時、気づかされました。 「傷や疾患は薬や医療行為で 直すもの」→ 「薬や医療でしか治らない」 近年、私たちはこのように 刷り込まれてきましたからね。 かくゆう私も子供の頃、 風邪をひいた祖父が 喉にネギを貼り付けて 手拭いを巻いている (ネギ湿布?!というのでしょうかね) という姿を何度も目撃していて、 「おじいちゃん、そんなことしても治らないよ」 とそのたびに言っていたのを思い出しました。 当時、私は、体調不良は病院や薬でしか治らないと 思っていたのです。 ネギ湿布は、 一度も試したことはありませんが、 何度もやっていたということは、 ひょっとして効果があったのかも しれませんね。 いつかやってみよう笑 何はともあれ、私たちの糧として また代わりに萎びたり枯れたり その生命を差し出してくれる 植物たちにとても感謝しています。 植物は高貴な存在だと個人的には思っています。 あぁ、こういうこと書くから 変な人なんでしょうね(汗 最後までお読みくださって ありがとうございます。